道産子は食卓の鹿を夢見るか?
〜エゾシカの社会的精神的価値を保護管理政策に組み込むために〜
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◆渡辺 修(1999)道産子は食卓の鹿を夢見るか?「北海道の自然」37号.北海道自然保護協会.より
昨年度から北海道は「農業被害の防止」を名目に、北海道を代表する動物エゾシカの大量捕殺を計画的に行なうと発表しています。現在の4分の1まで数を減らすために狩猟するということです。しかし残念ながら、これほど大量の野生動物を殺す計画について、ほとんど何の議論もなされていないのが現状です。
ここでは私たちが実施したアンケート調査の結果を元に、エゾシカを「野生動物」としてきちんと評価すること、それを制作に組み込むことについて提唱してみました。行政の計画の問題点についても整理しています。 意見・感想などお寄せ下さい。
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■はじめに
1998年北海道は、農作物被害・森林被害や交通事故の増加からエゾシカ対策を基本政策の重点項目の一つとして掲げ、「道東地域エゾシカ保護管理計画」を発表した(北海道1998)。すでにこの冬から計画は実施されており、マスコミなどでも取り上げられたほか、市民団体による鳥獣保護法の改正への批判議論も起きてきている。北海道自然保護協会でもこの問題についてシンポジウムを開催した(1998年10月)。
しかし道民の関心が高いのかというと、どうもそれほどではないようである。数年前から交通事故の増加など、エゾシカによる"害"・急増についての報道が多くなり、今回の計画に目新しさを感じにくかったためかもしれない。行政側もすでにメスジカの狩猟を解禁し数万頭レベルでの捕殺を行なっている。だが、今回の計画は事実上"初めて"具体的な管理計画を打ち出していることから、政策上の一つの区切りとなっている。計画の内容や意味するものがマスコミを含めた道民一般によく伝わっていない(伝えていない)のであれば、エゾシカにとっても道民にとっても不幸なことである。野生動物に対する取り扱いは市民の合意の元に進められるべきものであり、特に政策の可否の判断が難しい場合には慎重な議論と合意が必要だからである
今回の管理計画には、生態学にも政策論的にも批判すべき点が多い。しかし、ここでは、私たちにとってエゾシカの存在価値とは何なのか、それが政策に反映されているのか、という点にしぼって検討してみたい。今年(大急ぎで)行なったエゾシカについての道民あるいは北海道を訪れる人々に対するアンケートの結果も検討材料として紹介する。検証の対象としては、道の「エゾシカ保護管理計画」(以下、「計画」)を扱うが、考え方の枠組みが不明確な点も多いため、計画立案者の考え方がある意味で鮮明な「エゾシカを食卓へ」(大泰司・本間1998、以下「食卓へ」)も対象とする。この本は粗野な議論が目立つが、道の「総合対策」の一環として出された報告にもとづいており、計画を側面から支援する性格を持っている。
■エゾシカが人間にもたらす「価値」
「食卓へ」で著者らは、エゾシカによって「人々の生活が脅威にさらされている」とし、エゾシカを食べることで「これまで有害獣として「駆除すべきもの」という認識しかされてこなかったエゾシカが、まさに「禍を転じて福をなす」有望な野生動物として見えてきた」という。著者らの見方はともかく、道民一般にとってもエゾシカは「有害獣」としてしか認識されていなかったのだろうか。食べられることでようやく価値が出てくるような、そんなじゃまな存在価値しかなかったのだろうか。これはエゾシカの"専門家"に聞いて分かるようなことではない。一般市民の見方を調べ整理していかなくてはならない。
◎野生動物の価値についての議論
野生動物の存在は人類にとってどういう価値があるのか。この問題はかなり哲学的なテーマであるが、野生動物の保護を考える上では避けて通れない問題である。なぜ私たちは野生動物を保護しなくてはならないのか。絶滅させてはいけないのか。欧米では思想的な整理とともに実際の調査にもとづいていくつかの整理がなされているが、大きく分ければ
「@消費的=資源的価値」
「A生態的価値」
「B社会的=精神的価値」 の3つにまとめられている
(Purdy&Decker1989,Kellart&Clark1991,Gray1993など)。
@は古来からある肉・毛皮・乳などの消費財としての価値である。Aは野生動物が生態系の一員として果たす役割で、環境の保全やその存在自体の遺伝子多様性保存の意味がある。Bは近年重要視されてきている価値で倫理的価値とも呼ばれている。筆者は日本での実態調査の結果などからこの価値をさらに
「a教育的価値」
「b共生的価値」
「c野生的価値」
の3つに整理している(渡辺・小倉1996)。aは野生動物の形態的美しさやしぐさ、行動の面白さ・不思議さが絵画や学術研究などの知的生産活動に貢献したり、生物・社会・環境の学習活動の教材となったりする役割のことである。bは同じ生き物としての動物の存在を感じることによって得られる安らぎや楽しさである。近年注目されているアニマルヒーリングのようなコンパニオンアニマルを飼うことによって得られる肉体的・精神的治癒も含まれる。cは人間に支配されずに自由に生きる存在として野生動物を認識することによって、自分自身の自立性を感じる価値である。自由な存在・未知で不可知の存在は、畏敬やあこがれ、未来への意欲などをもたらす。狩猟も肉を得るのが目的ならば消費的価値に基づく行為であるが、野生動物との対峙という意味ではこの価値に基づいていると考えられる。
◎エゾシカの価値
次にエゾシカの場合はどんな価値評価がされているか検討してみよう(今回紹介する結果は表1の調査に基づいている)。
表1.エゾシカアンケート調査の概要
●北海道自然保護協会シンポジウム参加者(シンポ参加者) 22名 1998年10月
●美幌博物館来館者(近郊住民・来道者) 167名 1998年8月-9月
●厚岸水鳥観察館来館者(来道者) 172名 1998年8月-10月
●動物専門学校受講生徒(専門学校生) 10名 1998年9月
アンケート調査で野生動物の価値を尋ねた結果、どの調査でもほぼ共通の傾向として、社会への価値としては、「生態系を保つ働きをする」「自然について学ぶ材料になる」「美しさや面白さなど感動を与える」が、自分にとっての価値では「人間以外の存在があることを感じさせる」「共に生きている仲間がいることを感じさせる」
「感動を与える」が多く挙げられた(
詳しい結果の表)。これらはいずれも精神的価値と生態的価値に属する。一方、消費的価値である「肉の販売」は3-10%「狩猟」は0-4%にすぎなかった(いずれも男性でやや高い)。これはシンポ参加者≒保護関係者に限ったことではなく、また道内・道外の違いもあまりない。
消費的価値が小さいのは、日本ではハンティングは一般的な趣味ではなくシカ肉を食べる習慣もないので当然のことと言えるだろう。だからといって「価値がない」とする人は数%にすぎず、多くの人が「精神的価値」「生態的価値」を挙げている。この傾向は愛知県の農村部での調査結果(渡辺・小倉1996)やエゾシカとの日常的接触がある知床での調査結果(渡辺1994)とも似通っている(図2)。これらの地域では野生動物による農業「被害」問題がおきており、また愛知の調査地は野生動物を捕獲して食するなどの習慣も残っているが、やはり精神的価値がもっとも多くを占めている。このような精神的価値を都会人に固有の"感情的"で"観念的"なものだとする主張があるが、それは当てはまっていないことを示している。
精神的価値の特徴の一つとして、若い年齢層で高いことが挙げられる。愛知の調査でも若年中年層で「精神的価値」が高く、それは「野生動物」概念の違いに基づくことが分かっている。若い世代では、野生動物は捕殺して消費するものではなく、人間に圧迫されて失われやすくなっている存在であり生きている様を楽しむ存在である。これは近代の環境の改変と消費が過剰に進む中で、強まってきた価値観と考えることができるだろう。
◎道の「計画」の検証
人間社会の野生動物への態度や働きかけの総体を「政策」という一つのまとまりとして捉えるならば、政策は野生動物に対する価値を反映するものでなくてはならない。また価値は働きかけがあってはじめて意味をなすが、働きかけによって野生動物の状態が変化すれば、それにあわせて価値も変化する。例えば精神的価値は消費的価値のようにものさしで計ることが難しく、また計ること自体を拒否するところがあるが、それでも動物の状態や人間の働きかけ方によって変化することに変わりはない。
したがって一つ一つの政策は、@その働きかけによってどのような価値が得られるのかAその働きかけがもたらす対象動物の変化はどの価値にどんな変化を与えるのか、の二点から検証しなくてはならない。
◎計画の内容
まず計画を簡単に整理すると、現状認識として「分布域の拡大と生息数の増大」「農林業被害が急増・生態系への悪影響」が挙げられ、計画の目的として「人間活動とエゾシカとの軋轢を軽減するとともに、道民の貴重な自然資産として適正な保護管理をはかり、エゾシカの絶滅を回避しながら・・・人間とエゾシカの共生を目指す」ことが挙げられている。具体的な政策としては、個体数管理として狩猟を積極的に行ない、推定十二万頭とした現在のエゾシカの個体数を四分の一を目標に、五千頭を切らない程度に減らすことが挙げられている。目的には「共生」が挙げられているが、実質的には「農林業被害問題を解決する」ための政策であるので、ここでもそれを前提に検討を進める。
◎アンケートに見る政策評価
一般市民は農業被害問題に対してどう解決したらよいと考えているだろうか。単独の政策としては「間引きして減らす」「柵などで防ぐ」が多く回答された(表3)。これをさらに組み合わせで、「間引き」などの捕殺的方法のみの人、「柵の設置」「補償」などの非捕殺的方法のみの人、両方を選択したを選択した人に分けて図3に示した。その結果、「捕殺的方法のみ」10-30%に対して、「併用」10-16%「非捕殺的方法のみ」54-80%であった。調査によるばらつきは、非捕殺的方法の選択者が若年層・道外者・保護関係者に多いことによるが、どの層でも非捕殺的方法を選択する人が多い傾向があった。
この結果は、先ほどのエゾシカの価値評価と対応している。非捕殺的手法を選択した人の多くは、「仲間」「自立」「感動」などの精神的価値を挙げている人である。また「併用」は「観光」「教育」などのエゾシカの積極的な利用を考えている人に多い。そしてこれらの価値を挙げている人たちは捕殺的な手法を回避する傾向が強いのである。
実際問題、農業被害を押さえるという人間の都合にあわせて野生動物を殺すことは、野生動物の精神的価値を大きく引き下げる。また、人間が個体数をコントロールするということは「エゾシカは人間から自立した存在である」という価値観=野生的価値を引き下げることになるだろう。
◎価値を引き下げる道の計画
このような価値評価の面で整理すると、道の計画には問題点が多い。この計画では少なくとも十万頭前後の野生動物を捕殺することになり、またこの計画が前提としている個体数モデルではエゾシカは高い増加率で毎年増えていくとしているために、大量の捕殺が継続することになる.人間に害を与えるために、どんどん殺してもよい動物ということは、エゾシカはカやゴキブリと同じような精神的価値しか持ちえないことになる.垣間見てきたようなエゾシカの持っている価値の多くは失われることになるだろう(表4)。その一方で狩猟の機会は拡大するので消費的価値は少なくとも一時的には上昇するが、この価値を支持する人の割合は低いため全体的な価値上昇は見込めない。
このように道民・北海道訪問者の持っている価値を引き下げてしまう政策が立案されてしまうのは、精神的価値を全く無視して計画が立てられているためである。それは一つには先の引用に典型的なように計画立案者が精神的価値を認識していないためであり、もう一つには価値を組み込むための手法が確立されていないためである。「狩猟」という消費的価値のみ考慮して政策を決定すれば、とりあえず個体数を減らすという結論になってしまうのは当然のことである。明治以来の資源管理の発想をそのまま野生動物の保護に転用しようとする矛盾を批判されても(小田島1993)やむをえないだろう。
一方でただ殺すだけでは野生動物政策にならないので、捕殺過剰への歯止めとしては「絶滅を回避」という生態的価値が導入されている。しかし、五千頭までという根拠のない数字に象徴されるように、遺伝子の保存や個体数の調整よりも地域の生態系の多様な関係性の保護へと生態的価値のウエイトが変化していることを無視しているために説得力を欠くものとなっている。「計画」も「食卓へ」もうたい文句は「エゾシカとの共生」「絶滅を回避する」であるが、なぜそうしなければならないのかの考察はなく(理解してなく)、その結果政策自体にはそのことは反映されなかったのである。
◎農業被害防止策の実効性と実施コスト
ここまでの議論では、「シカを殺すのはかわいそうだ」といった精神的価値を重視すれば「被害は我慢しろ」ということになってしまわないのかという不安が生ずるかもしれない。農業被害防止政策の検討は、価値の面だけでなく、農業被害防止の実効性と実施コストも考慮しなければ意味がない。しかし道の計画では政策の実効性とコストの算定はなされておらず検討ができない。たとえば個体数を減らすことが農業被害の低下につながるかどうかは、この政策のもっとも重要なポイントだが考察されていない。野生動物のおかれている環境を考えればエゾシカが五千頭になっても農地に出てくる可能性は高い。実際にクマ類は現在数百頭レベルで草食専門の動物でもないが、農業「被害」は発生している。
では柵の設置や被害の公的補償などの政策はどうか。電気牧柵の設置などは道の計画でも採用され、取り組んでいる町村も多く、実効性やコストは明らかになってきている。少なくとも駆除よりも直接的に被害を減らせるのは確実である。価値面でこれらの政策が有益ならば、有害駆除・狩猟との比較のための試算をしなければならない。そして森林の保全などの生態系の保持・改善や、農地・道路の配置の見直しといった、真の意味での総合対策の実効性・コストの試算も必要である。これらが出揃ってはじめて、精神的価値の保持・上昇のためにどれだけのコストを私たちの社会が払わなければならないかが明らかになるのである。「シカを殺しちゃかわいそうだでは農家がかわいそうだ」では、それこそ感情的な議論で政策の検討には結びつかない。
■多様な価値観を政策に組み込むために
農作物を荒らすからといって動物を次々と撃ち殺すことを「かわいそう」と感じたり、家畜のように数を調整して管理することを「不自然だ」と感じたりすることは、多くの人が持つごく普通の感情である。ここまでの分析は決して特殊な要素や概念を取り出しているわけではなく、単にそのような感情を集約して形にしたにすぎない。問題はこの感情というものが形がはっきりせずいささか頼りないように見えることだろう。九〇人の「殺しちゃうのはどうなんだろう」というつぶやきよりも「俺は迷惑しているんだ。殺せ」という一人の大声の方が政策には反映しやすいのである。精神的価値や生態的価値をコスト面と合わせて検討できるように政策判断に組み込むというのは、なかなか難しい課題である。データも手法も議論もまだ不十分であり蓄積が必要であるが、手がかりとなることをいくつか述べておきたい。
◎精神的価値を組み込むことの意義
「食卓へ」のエゾシカ肉消費の拡大という提案は、道民の意識を精神的価値より消費的価値を重んじるように改造できるならば、政策としては成立する。しかし、筆者は精神的価値が圧倒的に優位に立つ現状を無理に改造することは、野生動物政策にとって危険であると考える。それは現代社会における生態的価値と精神的価値の増加が、自然環境の過剰な破壊を抑制するために発生したものであると考えるからである。
現在人類が自然環境を過剰に破壊して不利益をこうむりつつあるのは明らかであるが、それは消費的価値に基づく資源管理政策には予想できないことであった。たとえば農業や林業では、害をなす生物を減らし益をなす生物を育成すれば、利益が継続して入りつづけると判断していた。ところが実際には都合よく害だけを減らすことはできず、成長しつづけるはずの自然の生産能力も落ちてきてしまった。これは消費的価値では"見えなかった"自然の側面を無視したために生じたといえる。
このような消費的価値のみでの判断を修正するのが生態的価値である。生物をばらばらに扱うのではなく、つながりや全体の系に注目する視点を与えた。そして精神的価値は動物の殺傷を抑制する効果を持つ。これは表面的には単に「かわいそうだから」に見えるが、生物を殺傷することが実際には後で大きなコストとして跳ね返って来ることへの潜在的な判断に支えられていると考えられる。精神的価値が積極的に評価する自然の「不可知な」側面は、消費的価値とは相容れないが、政策にそのような視点が加わることで保険的機能を果たすのである。
◎精神的価値を守るためのコスト
一方でこれらの価値を守ることは経済的代償が必要な場合があることも認識しなければならない。しかし現状ではコストと価値上昇との対応が認識しにくくなっている。肉を食べるためには動物を殺さなければならない、というのは分かりやすい対応であるが(ただ「食卓へ」のような動物を栄養価で評価するようなやり方では分かりにくくしてしまうが)、精神的価値などの場合も対応を認識しやすいように動物との距離を縮めなければならない。エゾシカの場合も、殺さないために、柵などの建設費、農地の縮小、エネルギー利用の抑制といった様々なコストをかける必要があるなら、そのような選択を社会がする可能性は高い。
◎精神的価値を上昇させる政策
最後に潜在的な精神的価値の意義を明示化させ、コストとのバランスを検討しやすくする政策についてふれる。先に挙げた精神的価値の3要素の中では、教育的価値が政策として立案しやすい。エゾシカの存在を人間社会との「軋轢」も含めて教材化し、教育利用を積極的に推進する。エゾシカが広い地域で一般的に見られるようになったことは、実体験が効果的な環境教育の教材としては大きなメリットとなる。教育的価値は、観光という形で経済利益への転換を図りやすい。筆者らは東大雪地域で道外観光客の自然案内ガイドを数年間にわたって実施していたが、その際に参加者を大きくひきつけたのは野外で見るエゾシカの存在であった。野生の動物を自分の目で観察できることが、それほど安いとはいえない料金の対価となっていたのである。これが牧場に囲われたシカやホテルの食卓のシカらしき肉片では見合わなかったのではないかと思われる。
現在このような教育・観光面での利用は、知床など一部地域でしかすすめられていないが、政策的に体制を整備していけば、消費的価値以上にエゾシカを価値上昇に結びつけることが可能であろう。そうすれば精神的価値上昇のためのコストの意義が明確になり、政策は一つの流れとして完結するのである。
◎最後に
本論では、エゾシカという野生動物の取り扱いを広い視野で捉えるために多様な価値観の整理を試みた。野生動物政策の内容や決定方法に反映させていくには時間がかかるかもしれないが大切なことである。ただもし今回の計画が農業被害を抑えるという農政上の演出として推し進められてきたとしたら、この議論にも値しない「政策」である。今日多くの課題を抱える農政のしわよせが、"もの言えぬ"エゾシカに来るのであればそれは農政上の誤りである。その場合にエゾシカの代弁をすることも含めて、今後読者をはじめとする道民が声を挙げていくことがなによりも有効である。本論の整理がその助けとなれば幸いである。
人間存在についてのP.K.ディックの古典的名作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?Do
Androids Dream of Electric Sheep?」は人間より知能の優れたアンドロイドが多数存在する未来世界の小説だが、その中でディックは、アンドロイドにはない人間の能力として「他者への共感=感情移入能力」を挙げている。これは他の生き物の感情に共感し、その歓びに歓びを、痛みに痛みを感じる能力のことである(アンドロイドは動物を殺すことをためらわない)。これからの野生動物との付き合いを模索する中でさまざまな価値観の葛藤があり、矛盾が生じることがあるのは事実であろう。しかし、生き物を生き物として感じる認識を常に持ってすべての政策は進めていかなければならないし、その精神を踏み外すことへのチェックを受ける義務がある。今まで以上に慎重にしてしすぎることはあるまい。すでに人類は自身が生きる"意味"でもある「他者への共感」をだいぶ破壊してきてしまった。これ以上の後悔を背負って一人で生きていくことはつらいことである。
「どれほど純粋な知的能力に恵まれているアンドロイドでも....すべての人間が、なんの苦もなくやっている体験をぜんぜん理解できない...ほかの生き物に対して、その成功には歓びを、敗北には悲しみを共感する能力を欠いている...」.
Do Androids Dream of Electric Sheep? by Phillip K. Dick
●謝辞
調査に協力していただいた回答者の方々や実施を支援していただいた方々に感謝したい。特に以下の方には便宜を図っていただいた。鬼丸和幸・山鹿百合子・澁谷辰生・福地郁子。なお本論の内容についてはさっぽろ自然調査館の丹羽真一・渡辺展之と検討してまとめた。本論で用いた調査結果など詳しいことを知りたい方はご連絡いただきたい。
● 引用文献
Gray,G.G.(1993) "Wildlife and People: the Human Dimensions of Wildlife
Ecology." University of Illinois.
北海道(1998)道東地域エゾシカ保護管理計画.
Kellart,S.R.&Clark,T.W.(1991) The theory and application of a wildlife
policy framework. In "Public Policy Issues in Wildlife Management."
Greenwood Press.
小田島 護(1993)エゾシカの受難 野生動物は資源か.北海道の自然31.
大泰司紀之・本間浩昭(1998)エゾシカを食卓へ.丸善プラネット.
Purdy,K.G.&Decker,D.J.(1989) Applying wildlife values information in
management: the wildlife attitudes and values scale. Wildlife Society
Bulletin17.
渡辺 修(1994)野生動物に対する認識の実証的研究.知床博物館研究報告15
渡辺 修・小倉聡子(1996)農村域における野生動物の価値認識と保護・管理政策への意向.野生生物保護2